【脚本 塙 五郎 監督 天野利彦】
ちょっとちょっと! ブルマ、ブルマですよ奥さん!
◆ ◆ ◆
「私が30年の刑事生活の中で分かったことは、たったひとつだ。
それは、人間っていうのはねぇ、
ずるくて、汚くて、
あさましくて、いやしくて、嘘つきで、恐ろしくて、
そして、弱くて、悲しいものだってことだ」
おやじさんこと船村刑事の、レギュラー出演最後の話にして、塙五郎の“特捜最終作”。
塙脚本が本作で最後になったのは、決まっていたことなのか、たまたまなのかは不明だが、いずれにせよ、これが最後の特捜ということもあってか、先に書いたおやじさんの言葉は、まさに塙五郎氏にとってのテーマとも考えられる。
そして、これがまるで、塙氏の“遺言”のようにも思えてしまう。
さて、一度目の退職となる『裸の街』編や船村復帰編、そしてハワイ編など、おやじさんにとって節目となる話を書いてきた塙氏が、二度目の船村退職編を書くという流れは、いわば当然とは言えるが、その出来が、果たして視聴者が期待したほどのものだったかとなると、正直疑問符をつけざるを得ない。
心臓がかなり悪く、また名前も知らないが、刑事になって初めて犯人を逮捕したこの坂を上れなくなったら刑事をやめようと思っていたおやじさん。
そんな中、その“初めて逮捕した男”が起こした強盗殺人事件を追う中で、その男が実は“無実”だったことを知るおやじさん。
そして、その男を逮捕した後、おやじさんは辞表を出して、特命課を去る。娘には「辞めたくない、辞めたくない…」と、本当の心情を吐露して。
と、いうのが、船村2回目の退職編のあらまし。
「はじめて逮捕した男が、実は無実」というテーマは良いと思うのだが、話の内容自体は、もう少し何とかならんかったもんか、というのが、ワタシの感想。
30年前の事件そのものは、おやじさんが考えていた内容は、
「妻の愛人の男が、夫を殺して、娘が残された」
というものだが、実際は、
「夫を殺したのは妻の方で、娘は夫婦の子ではなく、妻と愛人の男のと子供であった」
というもの。
言っちゃ何だが、こういう内容自体が、ハッキリ言ってツマラナイ。
また、“無実の罪で逮捕されて30年間の人生をフイにした男の悲しみ”でも描こうとしたのかもしれないが、前述したように、男の行為自体が決して誉められたものではないので、この男に対し、ワタシとしては何の感情もわかない。
あまつさえ、学校の職員を殺した事件はまだ分かるとして、その後おでん屋や映画館主を殺傷したことについては、あまりにも支離滅裂過ぎて、意味が分からない。
まあ、どっかの話で「悪党に理屈など無い!」と神代課長が言ってたが、その一言で片づけられてしまったら、ドラマ自体が意味をなさなくなる。
最後は、「女と逢い引きした坂に、男はきっと戻ってくる」とにらんだ船村の言葉通り、男は坂に現れて、船村に逮捕されるのだが、この「おやじさんの退職」と「30年前の男」とを結びつける“坂”という要素も、イマイチ完全に機能しきれていないように思うのは、ワタシだけであろうか。
で、結局、坂を上りきれず倒れたわけでも、心臓の病でダウンしたわけでもないのに、船村は辞表を出す。
まあ、「無実の男を長い間、刑務所に入れた」ことを知ったことによるショックがそうさせたのかもしれないが、それに相当するような辛い思いは、今まで数多く特命課で経験してきたおやじさんだけに、そして肝心の話がイマイチなだけに、それで辞めるというのも、理由としては弱い気がするのだが。
というわけで、ワタシとしては、『ビーフシチューを売る刑事』で復帰するというのも、この話で退職するするというのも、話自体が微妙なので、納得がいかないというか、消化不良な感はぬぐえないのである。
ただ、絶対に評価されるべきは、他のドラマのように「番組降板=殉職」という、安直な話にしなかったことである。
と書いてしまうと、直後に“殉職”した吉野には申し訳ないが…。(それはつまり、「特捜」らしく、吉野も殉職にはしてほしくなかった、というワタシの希望なのだが)
前述したように、この話は、「特捜」最後の塙五郎脚本。
こう書くと、塙脚本が好きな特捜ファンに怒られそうだが、ワタシとしては、ある程度の本数の脚本を書いた作家の中では、“最も相性の悪かった脚本家”が、塙五郎氏だった。
もちろん、全ての話がそうではないのだが、どうも“ワタシには理解不能の人間が、理解不能な行動をとって、全く感銘も受けなければ共感もできない話”というのが、多かった気がする。
さらに、ワタシが“良くない”と思った塙脚本回の中には、“一般的には傑作と評価されている回”が、少なからず含まれているのである。
それは、ただ単に“相性”なのか、それともワタシの“人間性”に問題があるのは、もしくは両方か、それはハッキリとは分からない。
ワタシはまだ「特捜」を見始めて10年も経っていない、若輩者ゆえ、塙脚本の良さが分からないのだと、塙脚本ファンからは言われるかもしれない。
ならば、せめて後10年経って、あの頃は良いと思わなかった回を見てみようと思う。もしかしたら、あの頃とは違う感想が、ワタシの中に生まれるかもしれない。
ともかく、おやじさんの退職とともに、特捜の「黄金期」は終わりを告げることになる。
話の評価はともかく、「特捜最前線」を、ここまでの名作ドラマにする大きな一因であった船村刑事に、大いなる拍手と敬意を送りたいのである。
これってストーリーは全く覚えていないです。
ま、ツマらなかったです…
僕は小池朝雄がゲストの「自供・檻の中の野獣!」と
「哀・弾丸・愛」の前後篇は傑作だと思いますが…
前者は、誘拐犯に子供の居場所を自供させるために
男の過去(ネタばれなので秘密)を調べ、それを
突きつけ、結果自供させるものの…
ラストに犯人が自殺して終わる…
こっちの方がおやっさんにはショックでは?
僕の“最も相性の悪かった脚本家”は石松愛弘。
>影の王子さん
2時間スペシャルのエントリーで、月見家さんへの書いたように、この回もワタシ的に“微妙”だったので、2007年の3月に見ていたにも関わらず、レビューは今になってしまいました。
ちなみに、某特捜サイトでは“最高傑作”と評されている『哀・弾丸・愛』も、やはり微妙だったので、まだレビュー書いてません。年末年始に見て、書こうと思ってますが…。
『檻の中の野獣』は、そんな話でしたね。まあ、ラストの自殺はストーリー上余分だな…という思いはありましたけれど。そのあたりも、もしかしたら塙脚本との“相性の悪さ”なのかもしれません。
>“最も相性の悪かった脚本家”は石松愛弘
なるほど、それは分かる気がします。
まあ、そもそも、それほど傑作と言われる作品を書いているわけでもありませんしね。
シリーズ後半は、サブタイトル後に脚本家の名前がテロップで出ますが、あれも良し悪しですよね。
嫌いな脚本家の名前があると、それだけで見る気が失せてしまうこともありますよね。
むしろ、見終わった後で脚本家が初めて分かるほうが、「あぁ、脚本がコイツならつまらないはずだよ」で済みますし。
サブタイトル後に脚本家の名前がテロップで出るのは…
大体予想がついちゃってました。
確かに良し悪しですね…
あと、シリーズ物だと
「長坂秀佳シリーズ」なら「1ケ月楽しみだ!」
でしたけど
「石松愛弘シリーズ」なら「1ケ月生きるのツラい」でした。
>影の王子さん
「一ヶ月生きるのがツライ」とまで言いますか(笑)。
確かに、ファミ劇の放送予定分では、もう少し先に「脚本家 石松愛弘シリーズ」ってのがありますね。
まあ、この時期の特捜は、全体的な質自体が下降線なので、許容範囲かと…。
それと比べれば、特に第317-320話の長坂秀佳シリーズの時などは、本当に「一ヶ月楽しみだ!」というような、すごい時期でしたね。
※修正しておきました。影の王子さんから頂いた、ふたつのめコメントの、最初の一行も、残っていると変なので消しておきました。ご了承くださいませ。