【脚本 佐藤五月 監督 田中秀夫】
「鬼門」というからには、“風水”ではなく“気学”。
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佐藤五月脚本には、しばしば登場する、犯罪行為を行っても、何の反省も罪の意識のない女が登場…ではあるのだが、他の話に比べるとかなり異質な話。
大枠としては、連続幼女暴行魔に娘を殺された母親が、たまたま手に入れた拳銃で、犯人を射殺し、復讐を果たすという話。
この女自身、はじめから確固たる殺意を持っていたので、殺しをしたことについては、一切の反省もなければ、後悔もない。
しかしながら、前述した「他の回に出てきた意味不明の女たち」に比べれば、視聴者的に、女の心情は十分に理解できる。そこが大きな違いだ。
拳銃強盗、拳銃を手に入れて姿を消す女、暴行魔の裁判の日に現れて男を撃つ、というまでの流れは、さして脚本的にテクニカルな部分はなく、一本道で進んで行く。
が、この話の凄みは、実は“撃った後”に待っていた。
犯行後、橘や船村に対して、何の後悔の念も見せない女。それに対して、普段は見せない、何かうろたえているとさえ言える言動をとる、おやじさん。
はじめから殺意があるわけでもない、しかし許せない犯罪を犯した暴行魔の方が、法的には明らかに刑は軽く、親としては当然とも言えるが、確かな殺意を持って男を殺した女の方が、明らかに刑は重い。
そのことに疑問を呈する船村に、こちらも、普段はあまり見せないような口調で言う、神代課長。
「おやじさん、彼女は、殺意があったとハッキリそう言ったかね?
人を殺す時に、人間そんなに冷静でいられるかね?
まして彼女は女だ。
それに、夢にまで見た拳銃が手に入って、気持ちが動転していた。
地に足がついていなかった。
そういう人間を、我々は今までたくさん見てきてるじゃないか!」
しかし、そのすべてを、女の言葉は覆す。彼女には、拳銃を奪って、男を殺すことしか頭になかったのである。
この話を通して思ったことは、
「結局、法律は誰を守るためのものか」
あるいは
「結局、法律なんて無力なのだな」
ということ。
子を殺された親の悲しみや怒りは、犯人がどうなろうが決して消えることはなく、犯人に復讐して殺したところで、自らが犯人以上の重罰を受けることになる。
しかし、暴行魔の方は、軽い刑でのうのうと生きながらえ、また同じような犯罪を犯す。
これでは、一体誰を守るために法律があるのか、さっぱり分からない。
さらに、本当に子供のために復讐を決意した親にとっては、たとえその結果重罪を受けることになろうとも、そんなことは全く関係ない。その意味でも、また法律は無力だ。
ひとつの事件、たった一発の銃弾の話を通して、ここまでの問題提起ができる作品というのは、そう多くはない。そういう意味では、この回は、紛れもなく秀作ということが言えるだろう。
あと“拳銃が神様からの贈りもののように感じた”という女に対し、橘が“人殺しを喜ぶ神様なんているか”と言っているが、神の名のもとに、平気で大量殺戮を行う者どもがウヨウヨいる世の中では、空しく響く言葉でもある。
ただひとつ、作劇上残念なのは、サブタイトル前のところ。
この回は“倒置”になっていて、おやじさんがタクシーで裁判所に急行するところから始まるのだが、サブタイトルが出る前で、女はもう撃ってしまっている。
脚本での指定がどうなっていたかは分からないのだが、できれば、撃つ直前あたりで止めておいたらなぁ…とは思うのだが。